2021年12月発行 全聴教会報第95号掲載
棚田 茂 プロフィール
埼玉県。筑波大学附属聾学校、東海大学理学部情報数理学科、日本大学大学院総合社会情報研究科修了。NECで研究開発オーダーSE13年。越谷市役所で情報化推進を5年。平成20年埼玉県立大宮ろう学校に赴任。平成31年から坂戸ろう学園教頭に赴任。
何故、民間企業勤務から教員に転職したのでしょうか?
聾学校在学中、高等部に3人のろう教員がおり、彼らの存在によって、教職に関心を持ったと言える。しかし、当時は「強度の聴覚障害を有する人は採用しない」と教員募集要項にはっきりと記載されていた。軽度難聴あるいは発音が明瞭であることなどが不当にも要求されていた。いわゆる差別条項であり、ろう者は「聴者のようになる」ことが求められていた時代においてはこれが「フツウ」だったのである。このため、無理して教員になることはないと考え、たまたま大学で人工知能をかじっていたので、自然言語処理を研究開発できる企業に就職した。ちょうどその頃、世界ろう者会議が東京で開催され、世界中のろう者と交流する機会に恵まれた。「ろう文化」というキーワードが世界から紹介され、日本でも「ろう文化」について関心が高まった。しかし、当時の日本では「ろう文化」は芸術作品、芸術活動等を指しており、生活文化については全く語られていなかった。また、アメリカでは「DEAF PRESIDENT NOW!(ギャローデット大学学長にろう者を!)」というムーブメントが湧き上がり、とうとう「聴覚障害者」が学長に選出されたのである。このニュースは日本でも大きく取り上げられ、とても関心を抱いたことを覚えている。これは僕にとってパラダイムシフトだった。また、北欧ではいわゆる音声言語に則って話される音声言語対応手話は教育に弊害を及ぼすものとして、自然言語としての手話による教育(バイリンガル教育)がスタートした。これまでの口話法による教育のアンチテーゼとしてのバイリンガル教育に、僕が興味を持たないわけにはいかなかった。欧米では多くのろう教員が採用され、教科指導において手話で教えているという事実を目の当たりにした。前述の「強度の聴覚障害者は採用しない」というフレーズは、教育現場へろう者が進出することを事実上阻んでいた。それでも、教員に挑戦するろう者は後を絶たなかった。そういう仲間たちが僕の心の支えになっていた。しかし、「手話が出来る聾学校教員」という枠組みだけでは、聾学校で教える資格を満たさないないと考えていた僕は、世界に目を向け、いわゆる「ろう者学」を啓蒙しようとする任意団体で、「ろう者学」に取り組んだ。キャロル・パッデン&トム・ハンクリン著の「DEAF IN AMERICA(「ろう文化」案内、森壮也・森亜美訳)」はとりわけ、学ぶところが多かった。そして、2003年にはイギリスのパディ・ラッドが「DEAFHOOD(ろう者であること)」という概念を発表した。ろう者を文化言語モデルで捉えるという概念である。これまでは、ろう学校の「自立活動」と言えば、当初は「障害受容(リハビリテーションの概念)」、そして「障害認識(心理臨床の概念)」に置き換わって自立活動の授業に取り入れられるようになったが、その「障害認識」を大きく塗り替える概念でもあった。障害を医療モデル、社会モデル(障害モデル)で捉えるということ自体は「個人に焦点を当てた概念」であり、これだけでは「ろう者」について語るには不十分だった。「ろう者」は個人と言うよりも集団で形成されるモデル、すなわち「文化言語モデル」で捉える方が、「ろう者」について多くのことを語ることが出来る。ろう者は日常的に日本手話(以降、手話)を使ってコミュニケーションをするとともに、手話による思考をする。聾学校では手話を使うようになったものの、手話で思考をする幼児児童生徒に必要なものは何かを考えたときに、文化言語モデルの視点に立ったアプローチが求められているのではないかと考えた。これが、改めて、ろう学校教員を志す動機となったのである。そのとき僕は40歳であった。