2022年5月発行 全聴教会報第97号掲載
インクルーシブ教育が進む中、当事者教員の奥沢忍先生(つくば市)と阪田大悟先生(吹田市)が難聴学級担任として一昨年からご活躍中です。昨年の全聴教研究会の発表は、「共に学び合う」環境づくりや「難聴児の集団作り」の当事者視点を明確にされた素晴らしい内容でした。お二人は、先駆けとして難聴学級と通常学級での学びの支援と理解を広げるためにリードしていかれると期待を寄せています。
今回執筆依頼をされた編集部長の尾田先生は、坂本も昔は難聴学級担任だと思われて、過去の様子の紹介と若手の当事者教員へのメッセージを依頼されました。難聴学級の話をすることが多いので誤解を受けていますが、私は難聴学級担任の経験はなく小学校で専科として書写・図書・図工・家庭科・6年社会・3年算数・1年総合の手話を担当して36年間小学校で勤務しました。私の時代には不可能だったことが今は可能になりました。昔と今の時代がどう大きく変わったのか、当事者教員にはどんな夢や希望が託されているのかを考え、エールを送りたいと思います。
中途失聴のどん底から「きこえない教師」の役割発見まで
みなさんご存じの坂本は明るいと思いますが、突発性難聴から30歳で完全失聴し自己肯定できるまでの坂本はとても暗いです。会議や先生方とのおしゃべりが辛い。爆笑は針の蓆。逃げたい。引きこもりたい。どう生きたらよいのかわからないどん底の日々を過ごしました。
手話を学び始め明かりが射したのは、藁にもすがる思いで近畿地区聴覚障害教職員懇談会の門を叩いてからです。その日は総会で前田浩先生の優しい筆談の対応に私は心が安らぎました。近畿地区では学習会後の飲み会はもちろん、ボウリング大会、卓球大会、カラオケまで、親睦が毎回あり楽しい先生方に魅せられました。ろうの先生方からの学びは私の宝です。挨拶は楽しくて笑える。模擬授業の導入はあっという間に引き込まれる。手話の魅力に溢れ、宴会盛り上げ名人までおられて私もこんな素敵な教師になりたいと思いました。
2校目で手話を使い始め、書写の時間にきこえる子ども達が「聞こえない教師の役割」に気づかせてくれました。1991年、国際障害者年でNHKが一般校で働く聞こえない教師を探していて、3人目の私に依頼がきました。1か月の取材を受け「私は聞こえない教師」で放映されましたが、この時はまだ暗い時。取材終了後、いつもの授業初めの出席とりで「先生、声いらん。手話だけで名前を呼んで!!」と言われて試してみると、突然教室が静まり返り全員の目が私の手元に集中しました。手話だけの出席とりで初めて子ども達と心が通いあった感動は今でも心に深く残っています。1991年40歳。自己肯定まで10年余りかかりました。「音のない世界」の伝え合いの素晴らしさ、楽しさを伝えられるのが私の役割とこの日を境に翔き始めました。
吹田市立吹田第二小学校 難聴児センター校に転勤
理解と共感を広げるために ~先生方と仲良く・授業で勝負~
1994年、きこえる子ども達には《理解と共感》、きこえない子ども達には《自信と誇り》を持たせたいと異動希望を出しました。校長先生はできるだけ多くの子ども達と関わって欲しいと言われて、1年~4年の図書と3・4年の書写専科として300人余りの子どもを教えることになりました。
今から30年前、この頃のろう教育界は口話主義の時代で手話を認めず、口話とキュードスピーチを学校で使用していました。吹二小も同じですが、難聴学級担任の西村則子先生はこの頃卒業生から「手話と出会い、人生が180度変わった」と言われ、学校に手話を導入したいと考えておられました。手話通訳による情報保障は、理解のある唯一手話のできる西村先生。職員会議は輪番制の要約筆記、先生方は紙や手のひら、地面に文字を書く、身振りなどで一生懸命に伝えてくださいました。
理解を広げる第一歩は先生方と仲良くなるために名前を尋ねることから。「やだ」と教えてもらうと「ヤダ~ヤダ~」と手話で表す。「それは恥ずかしい~!」と言われたので、弓矢を引いて田んぼで「矢田」を表すと「それはかっこいい~!」と言って覚えてもらえました。5月の職員朝礼では自分で伝えますと言って、一人の先生が「反省」をサルの反省ポーズにされたので、朝から全員爆笑!!初めて先生方と一緒に笑えて涙が溢れました。一緒に笑えるってなんて幸せなこと!!
「理解と共感」は授業から。以前は会話ができないので教え込みの一斉指導をして会話から逃げていました。会話でぶつかることが理解のチャンスだと思えるようになってからは「会話の壁」を破る工夫と「教科指導」の一石二鳥を目指しました。例えば書写の「三」。毛筆指導のポイントは初めと終わりの筆の押さえです。黒板に大きく「三」と書き、「押さえはいくつ?」と聞くと、子どもは声で〇と答えます。すかさず「私は声が全く聞こえないから指を使って」と頼みます。すぐに子どもは指で3とか6とか表し、これが伝える為に指を使うという理解に繋がります。4年の「左右」は一画目と二画目を書いて「どちらが右でどちらが左?理由は?」の発問は大成功でした。答えを教えず、引き出すのが教科指導の成功(楽しさ)の秘訣です。5年家庭科の「買い物名人」では赤・肌色のウインナーを用意して、発問は「どちらを買いますか?理由は?」です。(詳しくは「きこえない子どもと共に」日本ろうあ連盟出版参照)栄養3色の学習は食品のフラッシュカードを準備し、赤・黄・緑の手話を教えてスタート。ピーマン→緑 うどん→黄肉→赤 トマト→赤 ☜私はすかさず間違った子を指差しして教えられます。手話はとても便利で指導に役立ちます。3年生の算数も授業始めの10の補数のやり取りは計算力アップと、指数字を覚えるために工夫しましたが、「教師役」と子どもみんなでやり取りする方法は盛り上がりました。「5」5―「3」7―「1」9(2006年「ろう・難聴を生きる 私は聞こえない教師」放映)こんな一石二鳥の授業は楽しくて、子ども達はあっという間に手話を覚えてくれるので、会話の壁がどんどん薄くなりました。
学校全体に手話を広げた先生方のアイデア ~子ども達を主人公に~
1つ目は校歌。異動した年に「運動会で校歌を歌うので手話を付けて一緒に歌いましょう」と難聴学級担任からの声かけで、手話を練り、練習を重ねて運動会当日は二人が運動場で前に立ちました。翌年からは手話クラブのビデオを給食の時間に流し、1年生には手話クラブが教え3年目に全員で手話と声で歌えるようになりました。
2つ目は、児童集会。担当の先生が「児童集会だから、手話も児童会役員に任せよう」と。登校すると、職員室前に役員がずらっと並んで待っていて、「手話教えて!!」と頼まれた時は驚きました。児童会役員が朝礼台に立ち、手話・身振り・実物・掲示物を見せるなど色々な工夫をして、自分たちの力で難聴児に伝えようと頑張っていました。音楽会の司会も子ども達が担当しました。学校の主人公は子どもですから、子どもが動き出すと学校全体に手話が広がっていきます。手話が学校全体に広がり会話の壁がなくなっていくと私の可能性が広がりました。校務分掌も努力目標委員会の長になり、「聞く・話すコミュニケーション力の向上をめざして」に取り組めました。
吹二小に異動した夏、1994年、宮城松島で全国聴覚障害教職員協議会の旗揚げがありました。毎年、難聴学級担任の西村則子先生は一緒に参加して下さって、夏のシンポジウムでの全国の仲間の先生方との出会いでますます世界が広がりました。
再び「一からのスタート」 ~この経験がひまわり教室開設に繋がる~
4校目。難聴学級創設の桃山台小学校に異動し、3・4年の図書と書写、5・6年の家庭科を担当しました。手話の無い、すべてが一からのスタートの環境の中、6年生が荒れていて先生方は余裕を失くしていました。3月末のバリアフリーの吹二小とは天と地の差。給食時の6人テーブルの疎外感は辛すぎました。授業崩壊やいじめと戦い、一石二鳥を目指す家庭科の授業はさらに磨きをかけました。名前だけの全校一斉朝読を定着させるために、放送委員会を動かし、保護者の絵本の読み聞かせと繋ぎ、2年目にようやく朝を静かに迎えることができました。学年付きになってからは学年だよりや学年会計を担当しました。異動1年目の疎外感と孤独。情報・コミュニケーション支援が得られず、会話の壁が立ちはだかると能力も可能性も発揮できない!!この苦労が退職後の「人の輪と心を育むひまわり教室」開設に繋がりました。
「人の輪と心を育むひまわり教室」開設(坂本自宅裏庭)坂本&西村主宰
2010年2月21日第1回一般校で働く聴覚障害教職員の学習会「聴覚障害教職員が一般校で働き続ける為に必要な事は?」からスタート、14回目を終えたところです。聞こえる学校で会話不全に悩む先生方がこの学習会で仲間と出会い、手話の大切さに気付き、会話の壁を破る工夫の模擬授業と実践交流、困ったことの事例の学び合いで明るく元気になられます。今では「ピンチはチャンス」が合言葉です。
「聴覚障害教員の可能性を探る」の連続シリーズ、聞こえる先生方に理解と支援を求める取説の大切さ、支援学校での手話研修の取り組み、「心の眼」~きこえない教師が働き続けるために必要な力~について、ろうの自分自身と手話通訳ときこえる子どもをどう繋ぎ実践をしたのかの中学校の先生の先駆的レポート。中学校の「いじめ」の模擬授業(文科省最優秀教員賞受賞)の感動は忘れられません。昨年は難聴学級担任としての実践レポート。この2月には「難聴理解と音楽支援の取り組み」「情報共有と管理職に求めること」「難聴教員として心がけていること」のレポートをテーマに話し合いを深めました。
今回初めて知ったコロナ禍の中の支援学校は朝の打ち合わせで緊急連絡が飛び交い情報共有できずに悩んでおられる方の存在でした。この学習会がきっかけで新たな情報を得ました。「コロナで密をさけるため、朝の職員朝礼はなくなり、今は校内ネットワークの掲示板に全ての連絡が載る形」「職員全体の連絡会は、PCの校内掲示板に連絡事項を入力。各学部、学年での連絡会はホワイトボードを活用。欠席や遅刻等の生徒連絡は、一覧で分かるようにミニホワイトボードを別に用意して情報漏れは少ない。これらの取り組みは、聴覚障害教員への配慮から始まったが、今では皆さんからとても分かりやすいと評判。もう7年目で色んな方から感謝されている」と。
情報・コミュニケーション保障はすべての人に役立つ~保護者支援は重要~
この学習交流会を通して、私達だけに必要だと考えていた情報・コミュニケーション保障(豊かなコミュニケーション力)が、実はきこえる先生方やきこえる子ども達にとっても、とても有効で役立つことを学んできました。
軽・中度難聴の先生方が会話の壁に悩み自己肯定感が持てなかった経緯は子どもの時に障害認識ができず、手話を学べなかった歴史と繋がります。
ここ数年前から、人工内耳で軽度難聴になった児童(乳幼児含む)が、保育園・幼稚園・地域の学校に通う例が増えています。
ひまわり教室できこえない赤ちゃんと保護者に出会ったことがきっかけで、保護者の障害認識・理解が当事者の障害観に繋がることに気がつきました。それからは第1の柱を保護者支援にしての取り組みを始めました。乳幼児のコミュニケーション支援で奈良県立ろう学校の吉本努先生に講師として絵本の読み聞かせをしていただいた時、あっという間に子ども達が絵本に引き込まれて対話が生まれました。後ろから声をかけていたママ達も子どもと向かい合い手話も使って絵本を楽しめるようになりました。
6年位前から「軽度難聴と人工内耳」の課題と支援をテーマに、重点的に取り組んでいます。言葉を獲得するためにはどんなかかわり方や環境が必要なのか、育ちには仲間の集団が大切なことを知る場にとなっています。ママパパはロールモデルの当事者との出会いで安心・自信・希望が湧きます。この経験から、ろう学校の早期支援や幼稚部で一日も早く、保護者がロールモデルとなるろうの先生と出会えることを強く願っています。「自分のきこえを周りに伝えて理解や支援を求める力」が道を切り開くので子ども達にはこの力を育てて欲しいです。(「人の輪と心を育むひまわり教室」のブログ参照)
手話言語条例制定で具体的施策の推進を!! ~夢の実現に向かって~
手話を否定された昔と違い、今は手話言語条例制定が全国で広がっています。しかし、公教育の中でどのように学ぶのかの具体的施策がないため、これでは絵にかいた餅です。障害者差別禁止法が制定され、合理的配慮が義務化された今、スロープや駅のホームの安全ドア設置も進んでいますが、障害が見えない私達の施策はなかなか進みません。外部から手話通訳を呼べない地域がまだあります。子ども達の未来が輝くように、行政・教育委員会と話し合い具体的に実現を求めていく必要があります。ろう学校の先生方はろう・難聴児を育てる拠点としての役割を担い、地域で学ぶ難聴児のためには当事者教員が増えて欲しい。通常学級担任にも挑戦して欲しいです。先生方が聞こえる先生方と力を合わせて、「共に学び合う」環境・学校作りを目指せば、きっと「いつでも・どこでも・誰とでも」手話で話せる共生社会が来るでしょう!!