「学びの交差点」は、きこえない教職員が全国の仲間とつながり、授業づくりのヒントや実践を共有する学びのプラットフォームです

先輩方と仲間に支えられて、広がる輪

2022年12月発行 全聴教会報第99号掲載

 「西の坂本、東の東條」

 私が辛かった時期に、遠く大阪から支えてくれた坂本大先生から言われた言葉です。まだまだ、私には荷の重い言葉ですが、ペンリレーのバトンを受け取り、これまでの経験をお伝えしたいと思います。

 私は生まれつきの難聴で、左耳は100㏈ですので日常生活においては音をほとんど感知しません。右耳は57㏈ですので、補聴器を装用してほとんどの音を拾うことができます。古くからの家で代々長男が引き継いできた、ド田舎の偏見の強い地域で生まれ育ったため、私が難聴であることは家族の誰も認めてくれませんでした。補聴器もずっと隠して生きてきました。三人兄弟で姉は陸上で全国大会常連、兄は文武両道で、中学校では「鈴木(旧姓)の妹」と先生たちに呼ばれ、家庭にも学校にも居場所のない生活を送ってきました。早くこの家を、地域を出たい、その一心で仙台へ出てきました。

 入学式の翌日、専攻内のオリエンテーションで初めて難聴であることを告白し、私の第二の人生が始まりました。初めて会った聴覚障害の人は、宮城教育大学の松﨑丈先生と山梨県の小佐野貴恵先生です。お二人には、宮城県聴覚障害学生の会に誘っていただき、手話の習得、集団での会議の仕方、会の運営や他団体との連携の仕方、友達との付き合い方…人と人をつなぐ基礎となる全てをここで学びました。また、彼らが創設し引き継いできた宮教大の手話サークルHANDS、情報保障の会などの活動を経て、私は初めて友達、親友と呼べる存在ができました。親友は、私と一緒に過ごす時間の中で、私が抱えてきたものを察知し、いつでも私の気持ちや行動を温かく見守ってくれました。にこやかで堂々とした彼女と私、背格好が似ていたので、周りからは「派手な方と地味な方」と呼ばれていました。先輩には、ノートテイクを受けながら、今後は自分で開拓していかなければならないというメッセージをずっと送ってもらいました。家を出たい、それだけが目標だった私にとって、教育大を選んだことは恩師の「教育大ならいろんな専門家がいるから、そこでやりたいことを見つけなさい」という一言でした。それでも、やりたいことは見つからず、そのまま卒業の年を迎えました。母からは「今まで辛かったことをこれからはプラスにしてほしい」と。

 学生時代、難聴児を持つ親の会のキャンプボランティアに参加していました。私の大学4年間の成長を見てきた会長さんが「あんなに笑わない子がこんなに笑うようになった」と教えてくれました。指導教官である専攻の教授には、「どんどん子どもになっていくわね」とも言われました。私は4年間で、先輩と仲間のおかげで、それまでできなかった経験を怒涛のように経験しながら、私という人間を生まれ変わらせてもらいました。

 教育大を卒業したら、先生になるしかないなと決めた進路。それでも、自分が幼少期から経験してきた、嬉しいことも悲しいことも誰にも言えなかった、辛かったことが、これからのきこえないきこえにくい子どもたちには経験してほしくないと思うようになりました。学校という場で、せめて彼らの居場所を作ってあげたいというのが私の目標になりました。私は普通校育ちですので、普通校勤務を希望しました。仙台市は平成20年度から障害者枠ができ、そこでの採用となりました。面接では、「採用後も手話通訳などは必要ですか」と聞かれ、合否に関わる返答…悩んで「状況によります」と答えました。(聴覚)障害者でありながら、(静かなところでの小人数なら)音声による会話が可能という、今思えば採用する側にとってはおそらくおいしい条件だったと思います。2年間の講師時代は、肢体不自由の支援学校でお世話になりました。年度末の研究発表会に向けて、研究主任から「何か発表してみない?」と言われたことをきっかけに、作成途中だったガイドブックについて先生方から意見をもらおうと発表しました。「もっと早く知りたかった」「イラストを入れてほしい」「具体的にしてほしいことが知りたい」との意見が寄せられました。こうして完成したのがガイドブックです。大阪の前田浩先生からお声がかかり、全聴教でも紹介させていただきました。全聴教とどさみちでは、難聴の教員は珍しく、初めの頃はとても居心地が良くなくて、いつも緊張していました。そんな私に声をかけてくれたのが、福島の長谷川先生です。優しく私の話を聞いてくれて、「難聴の先生としてここにいてもいいのだ」と思えるようになりました。坂本先生とのご縁もここからだったと思います。

 初任は知的の支援学校でした。初任研では、拠点校指導員の先生の理解があり、当時は積極的に情報保障をお願いしていました。しかしながら、研修センターに呼ばれ「あなたには情報保障をつけられません」と宣告されます。当時は自暴自棄になった時期もありましたが、諦めることは私にとっては容易いことで、校外の情報保障についてはしばらく控えました。指導教官からは「桂子が(情報保障のお願いを)やめても、私はやめないから」、中学部の主事からは「東條さんは、芯はぶれないけど柔軟な人だね。しかも、人の得意なことを見つけるのが上手」とも言ってもらいました。仙台市には1つの支援学校と普通学校しかないため、二校目は否応なしに通常学校勤務となります。そこで、異動の前の年、校長の配慮もあり、市内の二校に体験に行かせてもらいました。また、つくばの奥沢忍先生のところにも足を運び、難聴教員が通常学校で授業をする様子を参観させていただきました。工夫すれば、私も頑張れる、そう思って頑張りました。二校目では、校内の情報保障の理解をなかなか得られず、ずいぶんと坂本先生のメールに励まされました。

 難聴者としてのアイデンティティが確立してから10年、今度は指定難病になりました。難聴者として乗り越えてきた経験から、精神的には苦しむことも少なく、「東條桂子」としてのアイデンティティを確立できました。昔は誰かに相談する、誰かに頼るなんていうことは、絶対にできないし、やり方も知らないし、逃げるか耐えるしかなかった私も、困った時は頼れる人に相談する、自分にできないことはできる人にお願いする(しかも得意な人に)ことを身に付けて、生活を少しずつ変えていくことができました。

 平成28年に障害者差別解消法が施行され、いよいよ私も重い腰をあげなければならない時がやってきました。教師としては、子どもの居場所作り、聴覚障害教員としては「情報保障を認めてもらうこと」が私の役目です。管理職の壁があり、初めはもちろんうまくいきませんでした。仙台市がUDトークを契約したことを知り、それを使わせてもらうことがベストではないかと考えました。5年研でお世話になった研修センターの指導主事のご厚意で、研修では使えるようになりました。契約元である部署に勤めていた職員(手話通訳者で私の仙台の母)、UDトークの販売元である企業の職員(学生時代からPC通訳でお世話になっている方)と裏で何度もやりとりをしました。また、二校目でお世話になった組合の役員の協力も得て、そちらからも交渉してもらいました。

 コロナ禍と私の病休により、時間はかかってしまいましたが、いよいよ実現の時がやってきました。昨年度、採用後初めて教育委員会から聞き取りがあり、困っていることを初めて直接お伝えすることができました。お二人の指導主事はすぐに動いてくださり、UDトークの導入に奔走してくださいました。また、GIGAスクール構想のおかげで貸与されていた私のchromebookに、UDトークがインストールされました。本当は全職員のchromebookに入れてほしかったのですが、諸事情によりできませんでした。しかしながら、この反省を受けて、市内の別の学校に勤務している聴覚障害教員の異動先では、全職員のchromebookにUDトークをインストールし、会議で使用しているそうです。私の方は、後輩の実践例を受け、アプリをインストールする情報関係の指導主事と相談し、同僚の複数台にインストールすることとし、会議での運用が始まりました。また、研修センターでの情報保障にも関心を持ってくださり、中堅研担当の指導主事、研修担当の指導主事…4人もの指導主事が勤務校や研修センターで、UDトークをどのように使っていくか、実際に試しながら相談を重ねてきました。これがいわゆる、建設的な対話であり、とても理想的な状況と思っています。とてもありがたく、感謝の気持ちでいっぱいです。指導主事たちの熱意には、私も圧倒されてしまうほどです。それでも満足しないのが、うちの先輩たち! 完全にご厚意とは分かっていながら、今回の実現が私にとっては最終的なゴール!とにわかに喜んでおりました。しかし、メインで動いてくださっている先輩から、今回は(その指導主事の)仲間と結束できたことで実現できたこと、まだ制度に則った事業ではないことから、今後は教育委員会や研修センターで体制作りをしていくのが課題というメッセージをいただきました。

 いつもタイミングが悪い私ですが、振り返ってみると、いつも先輩や仲間が私を支え、導いてくれました。今回もご縁と輪が広がり、叶うはずがない夢が実現しました。もちろん、一番そばで応援してくれている家族と、信頼してくれている教え子と保護者のおかげで教師を続けてくることができました。みなさんに感謝の気持ちを忘れず、これからも頑張っていきます。